夏終わりの郷愁について

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雑記帳

9月に入って、久しぶりに後世に何らかを残したいや、と欲求が沸いたので、ワードプレスを立ち上げてみたものの、あれほどうんうん悩んでじんわりと習得したはずの知識は脳の片隅にも残っていないようだった。

まずログインできない。

パスワードをメモった紙はいざ知らず、ユーザ名すら思い出せず、

締め出され、締め出され、締め出され…

ページの読み込みが今度こそ遅い、これはついに正しいパスワードの入力を成し得たと確信したのだが、短時間のうちに何度もログインに失敗したためセキュリティに引っかかっていただけだった。

後世に何らかを残す前に、そのための扉を攻略せねばならぬ。

端末を前に四苦八苦する私の額は、雨に降られたために濡れていた。仕事からの帰り途中、突然の雨に降られたからだ。傘など持っていない。全く予兆を感じさせない雨で、一瞬でずぶ濡れになったが夏の名残を感じる温かい雨だった。

遠くの道路が垂直に落ちる雨で煙って見えた。湯気を連想して、焼きそばが食べたくなった。

悪くあるまい、と、思って、急に色々やりたくなった。

文章を書くのは好きだが、だ、である、と文末を括るのは苦手だ。それは、論文のように断定できるほど自分の言葉に自信が持てないし、日常的に誰もが使う日記やメールの表現から離れ、小説的な創作物に似るため、単純になんだか恥ずかしいからだ。

しかしあえて苦手なものに挑戦してみようと思って、今日の文体はこうである。

ネット上の部屋は殺風景で、いまだ私がどういう方向性で飾るのか未定だ。とりあえず今日は思ってることを書く。声を大にして主張したいことを書く。焼きそばをすすりつつ、私は狭い部屋で精神への入口の扉も探している。

8月が好きだ。夏が好き。

そしてその8月の後、必ずやってくるのは何だ。

あの今すぐ叫びたくなるような不安、停滞してることへの焦り、胸の真ん中の少し下、体のちょうど中央の目に見えない臓器を瞬間的に握られて、目尻から涙が出そうになる感覚。その感覚はじわじわと体全体に広がって外に漏れ出ることなく、またジュワ〜と溶けていく。

思い出の中のフライパンの上でバターが溶けている。無性に喉が渇く。影は伸びて日は西に、空は赤く、小学校卒業以来会っていない友達、別れた恋人、幼少期に頭の上から降ってきた両親の声、そして聞いたことがあるようなないような、男か女かも分からない誰かが、遥か遠くから私を呼ぶ声がする。

そう、8月の後に必ずやってくるもの。

それは9月だ。無論だ。当然である。

他の11の月と肩を並べて、毎年順繰りに彼はやってくる。あたかも自分は皆と変わりないただの月として。

しかし私は気づいている。

9月は他の月とは違うと昔々から思っていた。

どうしてああも、何も考えずにぼんやりとただ日の当たる草を眺め続けて、それが例え数十分だけでも、数十年も物思いに耽ったかのような錯覚を覚えるのか。

(その数十分の間に残暑厳しい9月の太陽が、私から水分を奪い、体温に異常をきたしている可能性はある。)

私は比較的、ぼんやりとただ暇を持て余すことがあったと思う。ポカリと口を開けて、間抜けづらを晒していたが、心はそんな複雑な感情に占められていた。

9月はとことんそれが顕著だ。

皆々経験あるであろうそれは、「郷愁」という名前が当の昔につけられていて、懐かしさだとか寂しさだとか、そんな感情によく似たものであるらしい。

簡単に言ってくれるが私が感じられる感情の中で、最も単純でない心の動きじゃなかろうか。

なぜそんな解決策も原因もよく分からぬ感情に9月は支配されてしまうのか。

私はそれには9月の秘密が隠されていると思う。この9月、私はそれを研究してみたいと思った。

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