かつて体験した不思議な出来事の謎が、最近解けた。
私にとって衝撃的な出来事である。その経緯を記録したい。
大した話ではない。
小学生時代、夏の終わりに祭りに行った
私の地元では毎年9月に大規模な祭りが行われている。
9月は日が暮れる前のオレンジ色が濃く、1年の中で最も寂しさが心に迫る月であると思う。
毎年、この祭りの花火を見て、夏の終わりを感じていた。
最後の夏のイベントだった。
小学校高学年にもなれば、親ではなく友達と祭りへ出かけた。
仲の良い友人2人と待ち合わせをし、会場まで歩いて行く。
見通しの良い平らな道をいけば、徐々に祭りの喧騒が近づいて来る。
気付けば道の両側に色とりどりの提灯が飾られている。
私たちが会場に着いたのは正午を少し過ぎた時間で、夏の名残の日差しが熱かった。
祭りは川沿いの大きな道路に沿って長く長く続いている。
道は歩行者天国に変わっていて、間隔を空けずにずらりと屋台が並んでいる。
注意しなければ人にぶつかってしまうほどに混雑していて、私は友人たちとはぐれないよう歩いた。見慣れぬ屋台の品々を眺め、あれこれと話した。
川と屋台に挟まれた道をゆっくり進む。
私は確か氷の上で冷えたパイナップルを1串買った。
店員さんとじゃんけんをする。
あいこだったので、もう1串貰って分けて食べた。
勝って1人1串ずつ食べようと思っていた。悔しかったのを覚えている。
パイナップルは前歯にしみるほど冷えていて美味かった。
自由に使えるお金なんて本当に少しである。
祭りの屋台には魅力的な食べ物がたくさんあったが、そのほとんどは1つ買ったら他の物を買うことができなくなった。
パインは比較的安かったが、もう焼きそばやお好み焼、たこ焼き、カステラなどを買うことはできない。
友人2人の懐事情も似たようなものである。
川から離れた細い通りには、屋台が客に覆いかぶさるようにぎゅうぎゅうひしめきあっていた。
私はすれ違う人々の中に何人もの知った顔を見た。
盆踊りの歌と蝉の声が空を渡ってゆく。
耳を絶え間なく誰かのはしゃぎ声が通りぬけてゆく。
全く、大層心地の良いうるささだった。
路地裏、踊る紙人形の話
私たちは歩き回って疲れたので、静かな道へ入る。
そこはちょうど祭りと住宅地の中間地点のような場所で、屋台もなく人もまばらであった。
道の途中に人垣ができている。
私達はその中心を覗き込んだ。
そこにはあまり綺麗でない服装のおじさんが1人立っていた。
集まった人はそのおじさんの足元を見ている。
10センチほどの厚紙で出来た人形が、ぴょこぴょこと元気に跳ねていた。
人形は2つあって、1つはサンリオキャラクターのけろっぴだった。
もう1つは思い出せないが、見覚えのあるキャラクターが描かれていたと思う。
糸や機械はついていない。生きているように動いていた。
それらは地面に敷かれた白い紙の上で、機敏にジャンプを続けており、1番近くに座り込んだ少年が、
「回って!」だの「もっと高く跳んで!」だの面白がって声をかけてやると、その通りにした。
その動きはボールが跳ねるような激しい動きであった。
子どもたちは、おもちゃを目で追う猫のように目玉を上下に揺らしていた。
例にもれず、私たちもこの紙人形に釘付けにされてしまった。
しかし、初めこそ魔法のような現象に驚くばかりだったが、見慣れてくると仕掛けが知りたくなる。
私達はあり得ないこととあり得ることの区別くらいつくと思い始めていた。
その人形の秘密を知ろうと、長いことその露天の前から動かなかった。
分かったのは、人形を売っているおじさんが動かしているということだ。
おじさんは売り文句の1つも言わずに、ただ近くに立っていた。
代金を差し出す子どもがいれば、黙って金を受け取って人形が入った小袋を渡す。
子どもの声に合わせて、後ろに組んだ手の指の先がわずかに動くのを私は見た。
そうすれば紙人形は大きく跳んだり機敏に宙返りをする。
おじさんは私たちの視線に気づくと体の角度を変えた。
肝心の仕掛けは分からない。
とうとう友人の1人が財布を鞄から取り出した。
インチキくさい気配は感じるが、私もその説明のつかない人形の仕組みが気になって止めることをしなかった。
もしもパインを食べずにここへ来ていれば、初めに財布を出したのは私だっただろう。
人形は500円だった。
大変な高級品である。
友人の紙人形
紙人形を手に入れた友人は、家に帰りその薄汚れた袋を開けた。
中にはキャラクターが書かれた厚紙と1本の透明な糸が入っているだけだった。
他には何も入っていない。
当然人形は動かない。
私はこの一連の出来事を、「理解の及ばない不思議な体験」として認識した。
この話を思い出す度に、あのおじさんは魔法を使えたのではないか、いやそんな訳なかろう、しかし説明がつかない、などと考えていた。
しかし、先日、それが魔法ではないことを知る。
私はある人にこの話をしたのだ。
すると、「見たことある!今もあるんだ!」という予想外の答えが返ってきた。
なんとあの人形たちは私が思うより有名な存在であるらしい。
ネット検索で真実を知る
私は初めて人形のことをスマホで調べた。
これまでネットから答えが得られるなんて考えたこともなかったのだ。
「紙 人形 動く 仕掛け」などと検索したように思う。
すると見事に人形の秘密を解説したサイトや動画が出るわ出るわ…。
こうしてあっさり魔法は解けたのである。
魔法はあると私は思う
この話から私が得たのは「魔法は存在する」ということだった。
結果的に紙人形は魔法などではなかった。
多分それは事実に違いない。
しかし、それは10年以上後の今だから私が知り得たことである。
では、この10年間、あの紙人形は何で動いていたのだろうか。
私たちは残念ながら自分で見たり聞いたり、知ったこと以外を分かることができない。
私はあの動く人形をあり得ないと思いつつも、あり得ない確固たる証拠を知っているわけではなかった。
だから「魔法なのでは?」という極小さな疑惑を何度も捨てたり拾ったり繰り返していた。
また、子どもに付き添っていた大人の中には、恐らくあの人形の仕組みを知っている人がいただろう。
しかし、その大人ですら「あり得ない」証拠は持っていない。可能性を1つ知っているにすぎない。
なぜなら、実際に人形を自分で動かしてはいないからだ。
あの祭りの場で、あり得ない証拠を持っていたのは、ぼうっと人形の隣に立って指を動かしていたおじさんだけである。
また、馬鹿げた話だと思うが、いや、実は完全に馬鹿げているとは思っていないが、あの薄っぺらい紙人形に意思や人格があって、面白がって私たちの言葉の通りに跳ねていたのだとする。
それがあり得ない証拠は誰が知っているのだろうか。
人形を操っているおじさんではない。
人形が、おじさんの意思に従ってやろうと考えているのかもしれない。
指の動きを人形たちが盗み見て跳ねているのだとしたら?
あり得ない証拠を唯一持っているのは人形である。
この時、おじさんの立場は魔法を信じた私と同じだ。
子どもっぽい考えだろうか。
私はそう思う。
しかし、10年後そう思っているだろうか。
私が薄ぼんやりと魔法を疑っていた期間、間違いなくあの人形たちは魔法で動いていた。
10年後の今、私にかかった魔法は解けた。
そして私は恐ろしく思っている。
今私にかかっている魔法が一体どんなもので、どうすれば解けるのか全く見当もつかないからだ。
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