右耳側水没イヤホンの不自由
夜、最近私は縄跳びを跳んでいる。
スマートフォンにイヤホンをつないでラジオを聴きながら跳ぶ。
私のイヤホンは1年ほど前に買った安物で、音質にはこだわらず駅の売店で適当に買った。
確か値段は1000円ちょっとだったと思う。
半年ほど前に私はイヤホンの片側を水没させた。
自宅の風呂の湯船に浸かりながら音楽を聴いていた時だった。
それ以来、右耳側からは膜を1枚へだてたような、くぐもった音が出るようになった。
最初は気になっていたが、いつの間にか慣れてしまって買い替えずに使い続けている。
ラジオ音源の左右差と体内時計
箱根の夜は大層静かだ。
時折車が離れた道路を通過するエンジン音が聞こえるだけである。
特に今日の夜は無風だったので、風が通り抜ける音もしなかった。
背後の街灯に大きめの羽を持った虫が体当たりするかすかな音もよく聞こえる。
私はイヤホンをつけて縄跳びを跳んでいた。
ラジオのチャンネルはいつも適当に選ぶ。
今日はリクエスト音楽をフルで流すチャンネルをかけた。
流れる曲の多くは聞き覚えのあるものだった。
不意に左耳からイヤホンが外れた。
音楽は右耳から聞こえるくぐもった音だけになった。
私は跳ぶのを止めて、体の前で宙ぶらりんになったイヤホンをつかまえ再び耳に装着しようとした。
しかし、ふとそれを止めて雑音のようになった音楽に耳を澄ます。
静かで1人きりの夜に私が考えることと言ったら、大体は私自身の将来の行く末についてだったりする。
今日もそれは例外ではなかった。
右耳からの音を聞きながら「これはいつか聞く音なのではないか」などと考えた。
老いはどこからやってくるか
時計は見えない時の流れを、私たちに分かりやすいように変換する。
アナログ時計やデジタル時計、砂時計など時計の種類は数あれど、その役目はどれも同じだ。
私たちも体内時計というものを持っていて、生活の習慣に合わせ、ある程度正確に空腹や起床、眠気を覚える。
これは見えない時間の流れを見えるようにする、時計と同じ機能を持っているといえるだろう。
次に、人間の体そのものを1つの時計に見立てて考える。
その時計は生まれた瞬間から死ぬまでの間、見えない時間の認知できる形に変換し伝える。
それは「老い」と呼ばれ、顔のしわや筋肉の量、声のしゃがれなど様々な形で発現する。
私たちが見慣れている時計は、秒針、短針、長針の動きで時間の流れを表現するが、人間の体は老いの現れ方によって時間の流れを表現する。
イメージは砂時計など量の変化によって時間を表す時計に近いかもしれない。
砂時計は砂の1粒が落ちる過程の繰り返しで時間が分かる。
人間の体は、老いの進行具合で見た相手に年齢や時間の経過を伝える。
では、その老いは具体的に体のどの部分から進行してゆくのだろうか。
左指の先の皮からだろうか。
それとも右足の先からだろうか。
それとも目に見える外枠の部分は一番最後で、内臓から進行しているのだろうか。
部位による体のぎこちなさ
外れたイヤホンをはめなおして、また縄跳びを跳び始める。
街灯の光に照らされて私の影が地面に映っている。
縄跳びを跳ぶ動きは左右対称であるべきだが、左半身のほうが少し動きがぎこちない。
それは、利き腕側の右よりも体が未発達なのかもしれないが、左側に右側よりも老いが発現している場合もあると思う。
そう仮定すると私の体の老いはざっくり分けると、左側から右側へ進行しているのかもしれないと考えた。
死に向かう事実を知った我々は。
私たちの体が時計と違うのは、正確な時間の経過を表すことを目的としていないことと、ごまかしがきくことだと思う。
人の多くは老いたくない。
若々しい方が見目麗しいし、死を予感させるものを嫌がる人も多い。
だから化粧品に高いお金を払ったり、今の私のように縄跳びを跳んだりするのだ。
右耳の壊れたイヤホンからは、はるか遠くで発せられた音をなんとか拾っているような音がする。
私の耳が老いるにつれて、音の聞こえ方は右耳のものへ変化してゆくだろう。
それは長い時間を要するゆっくりとした変化だろうが、明確にこうして音質の違うイヤホンを左右で聞くと、終わりに向かって進んでいくことを突きつけられるようで悲しくなる。
しかし、それは悲劇のはじめと終わりを読んで物語を知った気になるのと同じ行為だ。
結局皆死ぬのだ。
だから私はそこに至るまでの過程が重要であると考える。
いずれ死ぬ。
その死をいかに彩るべきか考えなければならない。
虫が明かりにぶつかる音は気付けばもうしなかった。
ラジオからは題名の知らない軽快な音楽が流れてきた。
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