11月の第一週目、紅葉の名所「長安寺」へ
こんにちは。
ここ数日で一気に紅葉が進みましたね。
せっかくなので紅葉狩りを楽しもうと思い、朝一番のバスで仙石原の長安寺に行ってきました!
行くなら朝がおすすめです。
なぜなら、緊急事態宣言が解除されてからと言うものの、箱根に圧倒的に観光客が増えたから。
箱根湯本や大涌谷周辺の大渋滞など、ありがたくない賑やかさも復活です。
喜ばしいことではありますが、住んでいる身からするとあの静けさも少し恋しい……。
皆でわいわい紅葉狩りも楽しいですが、私は静かにしみじみするのが好みです。
それと単純に晴れた日の朝の空気の方が、自然は綺麗に見える気がします。
見頃は数日後…
長安寺の入口の木々はすっかり黄色
これからどんどん紅葉が進みそうです。
手水。
辺りが静かなので水の音が響きます。
ちょろちょろ流れる水の音って心地よい。
長安寺の境内の中には至る所にこういった石仏が置かれています。
同じものはなくてどれも表情豊かです。
まずは参拝。
お寺の参拝方法がいまいち分からないままこの年まで成長してしまいました。
何となく手は叩かずにお辞儀と目を閉じてむにゃむにゃとお願いをしてご挨拶。
私はいつも仏様や神様を前にすると、まず世界平和とかをお願いしてしまうのですが、ただの平民である私がおこがましいわと思いなおして、「愉快なことに恵まれますように」といった漠然としたことをお願いしかけ、他力本願なその態度に機嫌を損ねられてしまうのではないかと危惧し、「愉快に生きたいです。」的な宣言をして謙虚さを評価してもらおうとするに留まります。
だから無駄にむにゃむにゃする時間が長くなります。
あまり長いのも格好がつかぬとそそくさと帰った辺りで、きっと謙虚な人間は日々無事に過ごしていることに対するお礼などを伝えるのだろうと思い至って、毎度自分の欲深さや「せこい」気質を自覚します。
そして、あれこれ無駄なことを考えているから結局何を言ったのか、私本人がすぐに忘れてしまうのでした。
そもそも、日ごろから信心深い生活を送っているならいざ知らず、通りかかった時だけ頼られたんじゃ雲の上に住んでる方々もうんざりされるだろうと思います。
まずは生活を改めたいなと今日も思いました。
お参りするたびにこの結論に至るのが私の恒例行事です。
お寺の裏手の山の斜面には長安寺が誇る五百羅漢の像があります。
そちらも見に行きましょう。
人気の観光スポットでもある長安寺の五百羅漢像
お寺の裏手は山に面していて、その斜面にはたくさんの石仏がじっと動かずそこに居ます。
それらの五百羅漢像の周りには参道が整備されており、見頃を迎えた紅葉も多く植えられています。
いや、参道の周りに像が置かれたのでしょうか…。
どっちが先だったんだろう…。
林の中には小さな稲荷神社もありました。
ここに住むお稲荷さんや仏様は結構楽しそうな生活をしてそうです。
静かな林の中だと思っているのは我々人間だけだったりして。
お寺の中に鳥居があるのって、あれかな…。
ほら、中学生で習った、そう神仏習合の時代の名残なのかしら…。
お風呂入ってる時みたいな顔。
多分この方が一番優しい。
近所にいそうなおじさま。
好き勝手に像のバックグラウンドを想像する遊びは大変楽しゅうございました。
最近、一人遊びが得意すぎて一生こうして一人で遊ぶのだろうかという寂しさも同時に襲ってきます。
楽しいのにままならぬ世の中…。
ちなみに五百羅漢とは、ネットで調べてみたところ「500人の阿羅漢(あらかん)」という意味だそうです。
「阿羅漢」とはお釈迦様の教えを学び、身に着けたとても偉い方々を言うようで、皆さますでに悟りを開き煩悩を捨てた状態にあります。
私は未だ煩悩まみれ。
捨てたいとは思っていませんが。
紅葉しつつある秋の景色はしみじみと自分の至らなさを刺激してきます。
静かだからいけない。夏は優しかったのに。
ぼんやりしていれば段々とカメラを構える指が冷えてきます。
しみしみ。染み染み。
無性に「おでん」が食べたくなりました。
その瞬間に、急激に「秋」を感じ取ります。
一種のひらめきに近い感覚。
食欲は四季に本当に敏感。
全体の紅葉の具合はこんな感じでした。
きっと満開(?)の見頃はもう一週間くらい後でしょうか。
しかし紅葉も良いけど、私は断然花より団子。
今日はおでんを買って帰ることに決めました。
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