あの分厚い布で覆われた物たちの正体は。

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雑記帳

味噌汁の具は油揚げであった。

社員食堂の味噌汁の具は、今日も今日とてしけている。
たまには2つ以上の具が入った味噌汁を飲みたいものである。

油揚げは3切ほどで、細く切られていた。

1つ1つを観察してみると、1切れだけ他の物より大きい。

どうやら油揚げの角の部分のようである。

油揚げの角で気付く健康状態

私はそれに幸せを感じたのだが、これは世間的に見て相当小さな幸せだと思う。
話に聞く狐のように、油揚げが大好物と言うわけでもあるまいし。

つまり、今日の私は健康で、小さなことにも気づく余力があって、油揚げを気に掛ける心の広さを持っていたというわけである。

幸せな精神状態と言えよう。

比較対象になる貧相な油揚げが2切あったのも良かった。

これは、心の状態によって普段は見えないものが見えるケースである。

私は油揚げの角を大事に食べた。

0.14はちゃんとある

先日、何かの拍子に父と円周率について話した。

なんでも、今の小学生は円周率を3.14ではなく3で習っているらしい。
(本当かどうかは知らない。)

「計算が楽で羨ましい。」
私の安易な感想に対し、かつて子どもだった父が体験談を述べる。

紙か何かを切り出して円を作る工作をしていたそうだ。
3で計算した長さで円の外周にあたる紙を切ってみたが、省いた0.14のせいで微妙に長さが足りなくなる。

少しであれば分からなくても、扱う数値が大きくなれば足りない部分が見えてくる。

塵も積もれば山となる。
これもまた見えないものが見えるケースだ。

「見えない」イコール「ない」?

見えなかったものが見えるようになるケースは他にもたくさんあるだろう。

例えば、ニキビが完治した後も、無意識的に癖でそこの肌を触る。
ニキビがなくなっている。
そこで初めてニキビを触る癖があったことに気付くケース。

例えば、昔読んだ本の内容は覚えているけれど、題名がどうしても思い出せない。
それを何かの拍子で思い出すケース。

まあ色々ある。
我ながら例が良いとは思えないが、言わんとすることは伝わると信じる。

油揚げの角、0.14、無意識の癖、はるか忘却の彼方にある記憶。

それらは一見「ない」ように見えるが、実はある。
見えないものが「見えない」理由は、「ない」ように見えるからだ。

言葉遊びのようである。

久しぶりなのか初めましてなのか。

先日、久しぶりに会った人がいる。

数年ぶりに会ったその人は、別人のように変わって見えた。

顔や姿が大きく変わったわけではない。
好ましく思っていた性分のようなものが、すっかり消えてしまっているようで私を随分悩ませた。

話を聞いていると、変わった理由は円周率の例に似ているようである。
小さな意識の変化を重ねるうちに、私の知っている彼女から大きくかけ離れてしまったようだ。

良くも悪くも刺激の多い毎日を送り、いつの間にか味噌汁の油揚げに幸せを感じなくなったらしい。

その変化が私は悲しかった。
私と別世界の住民になってしまったように感じたし、優越感や劣等感を交互に抱き、なんだかグラグラと落ち着かない。

しかし、3日くらい悶々と悩み、油揚げや円周率や妖怪や日向の埃やらに思いを馳せているうちに、なんだかどうでも良くなってきて現在に至る。


いや、もっと良い話にまとめようと結構長いこと悩んだ。
だが悩みにつける薬など都合よく見つかるわけないのである。

私は人が変わった理由について考えることをやめた。
飽きたとも言う。

しかし、それとは別に悲しい気持ちは心身の健康のために折り合いをつけねばならぬ。

悲しみとイメージ

「私の知らない人になってしまった」という絵がある。

多分その絵に描かれた人は背中合わせだったり、それぞれが遠く離れたところにいると思う。
そのイメージで悲しくなるのは致し方あるまい。

見方を変えてみる必要がありそうだ。

脳みその中の言葉を視覚的なものに変換してみよう。

例えば、嫌味な上司のせいでめちゃめちゃに仕事に行きたくない時、脳内では

「やだなやだな本当にやだな。なんで私がやらなきゃいけないんだ。うーうー。」

といった思考が、私自身の声で高速に流れ続けている状態である。
強いて言うなれば、私の思考は耳で聞いているのに近い。

昔、誰かに「そんなこと言っててもしょうがないじゃん。ちょっとは見方を変えてみれば。」と言われたので、私は見方の変え方を考えた。

そこで、とりあえず聴覚的な脳内の思考を、視覚的に変えてみることにした。
意外にもこの考え方は有用だった。

イメージを変えてみる。

我々はかつて横並びに仲良く並んで歩いていた。
会わない期間も一緒だった。
しかし、それが一方的な思い違いであったことを知る。無論悲しい。

しかしそれは違う。
実は同じ方向に歩きながらも、実際の彼(もしくは彼女)は、私から遠い方の足の爪先の角度を斜め5度から90度(人によっては91度から180度。股関節の痛みが変化の度合いに比例するだろう。)ほど外側に広げながら前進していたのである。
やってみると、ちゃんと斜めに進むのでイメージしやすい。

会わない期間、私は当然それが「見えていない」。

要するに「私の知らない人になってしまった」という絵は、カニ歩きで歩く人々の絵であっても、それはそれで正しいのである。

私たちはそれぞれ、なんとも面白おかしい様子で道を別ったのである。
挿絵でよくある美しいY字形の道によって別れたのではないのだ。

見えないようにしておくケース

私自身もまた、人生を千鳥足でよたよたとさ迷っている。
脳内の嫌味な上司の顔パーツで福笑いなどに興じながら憂さを晴らして乗り切っている。

そんなことを繰り返すから、新たな人に出会ったり、いつの間にか別れた人と隣を歩いていることもあるのだろう。

そうして私の悲しい気持ちは、とりあえずすっかり見えなくなったのである。

今日、私が言いたかったのはそれだけだ。

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